江原台遺跡 えばらだい
江原台遺跡(えばらだいいせき)

 国道296号を佐倉から臼井に向かう角来の坂を上りきると、道の両側に平坦な台地が広がります。この辺りは古くから縄文時代の遺跡として知られています。

 昭和50年代、江原台(現在の聖隷佐倉市民病院の周辺)は区画整理や、国立歴史民俗博物館建設に伴う国立病院の移転に伴い、数度にわたる発掘調査が行われ、縄文時代から平安時代まで断続的に形成された市内で最大級の複合遺跡であることがわかりました。中でも、その直前に発掘された臼井南遺跡群(現在の王子台)や間野台・古屋敷遺跡(現在の臼井中学校)の成果に続き、弥生時代後期の大規模集落の発見はさまざまな新事実をもたらしました。

 当時の人々の住まいに目を向けますと、弥生時代後期の竪穴住居跡が70棟を超え、その多くは、陸上競技場のトラックのような小判形、あるいは隅丸長方形と呼ばれる平面形をしています。同じ隅丸長方形でもフリーハンドで書いたような中期宮ノ台期の形と比較するとコンパスや定規じょうぎを用いたように「平行」、「左右対称」などと表現するのが相応(ふさわ)しい企画性を随所に伺うことができます。圧倒的に数の多い長軸が9メートル未満の小規模の住居に混じって、10棟ほど発見された大型住居には、特別な存在感があります。最大のものは、長軸11メートル、短軸9メートルを超え、100平方メートルの面積に及びます。4本の主柱に支えられた居住空間は、単なる住居とは考えにくい規模を持っています。

 集落が消えるまでの期間、ここで生活する人々がムラを存続するためには、個人的な生活空間とは異なる協同的な共有空間も必要だったのでしょう。竪穴を分析すると、平面形はどれも似て、柱や炉の位置に差異はありません。際立つ大きさの違いは何を示しているのでしょうか。100人以上もの人々が座ることのできるスペースは、ムラの集会用あるいは共同物置などに用いられた施設ではないかと推定されます。                

(「原始・古代の佐倉」佐倉市市史編さん室)    

 


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